箱根に着いてまず考えるのは、次の乗り物の時刻だったりします。新宿からロマンスカーで約80分、ランチは1,000円台から2,000円ほど、それでこの山の一皿にありつけます。硫黄の匂う谷、地下水で仕立てた湯葉、杉並木の奥の甘酒——箱根の食は、どこで空腹になるかで姿を変えてしまう。2024年の観光客は2,031万人で6年ぶりに2,000万人を超えましたが、その約8割は日帰りで街を通り抜けていくのだから、本当の問いは「何を食べるか」より「いま周遊ルートのどこにいるか」なんです。
この79.8%という数字を、実際の一日に置き換えてみます。箱根フリーパスを握った日帰り客は、ずっと時計と競争しているんです。ロープウェイ、芦ノ湖の遊覧船、登山鉄道、バス。どれにも最終便があって、時計回りのループはその前に閉じないといけません。だから多くの人は、ルートが運んでくれた場所でそのまま食べます。ロープウェイが停まるからと大涌谷でスナックをひとつ、バスが降りた足元でさっと一杯、という具合に。約1,557万人が、1枚のきっぷで街を通り過ぎていくわけです。
実際に歩いてみると、箱根の食は二つの層に分かれていました。すでに駅や噴煙地にいるからつかむ「移動に縛られた食」と、わざわざ寄り道してでも会いに行く「目的地としての食」。この二つを見分けられるかどうかが、ほとんど勝負なんです。メニューの中身より、その日どう動くかのほうが、たいてい勝ってしまいますから。
まずは有名どころから。黒たまご(くろたまご)は、早雲山から桃源台へ抜ける箱根ロープウェイで上った、地熱の谷にあります。売り場は大涌谷くろたまご館。殻が黒く染まるのは、硫黄と鉄分をたっぷり含む温泉の湯で茹でるからです。地元では、ひとつ食べると寿命が7年延びると言い伝えられていて、4個ほどで約500円のパックが湯気を立てて並びます。味は、正直に言えば、ほんのり硫黄が香るだけの普通のゆで卵。ここで買っているのはタンパク質ではなく、場所のほうなんです。
その割り切りが、たぶん正解です。黒たまごは、箱根でいちばん純粋な「移動に縛られた食」。ロープウェイがどうせ噴煙地に停まるから存在しているわけで、だからこそその場で頬張るのがいい。足元から硫黄が立ちのぼり、晴れていれば稜線の向こうに富士山が顔を出す——ランチではなく、周遊コースに押すスタンプだと思って味わってみては。
本物の一食は、電車が始発する箱根湯本のあたりに集まっています。ここなら接続を犠牲にせず、ループからひょいと降りられるからです。箱根の正直な名物はそば。ただ、知っておくと得をするひねりがあります。1934年から駅の近くで続く名店・はつ花そば本店は、せいろそばを水ではなく、すりおろした自然薯(じねんじょ)と卵で練るんです。おかげで普通のそばでは出ない、密でほとんど絹のような喉ごしになる。箸を持ち上げた瞬間に「箱根」と語ってくれる一皿ですよ。
数分歩いた先の湯葉丼 直吉は、繊細な湯葉をのせた湯葉丼を、箱根の地下水で仕立てます。この水の柔らかさこそが核心で、だからこの山は豆腐や湯葉がとびきり美味しい。そばを「スナック」でなく「目的地」にしたい純粋主義者には、ミシュランの星を持つ手打ちそば 竹やぶ箱根が、あえての寄り道です。強いそばの香りと、抑えの効いたつゆで知られる一軒。三軒に共通する筋は同じ。派手さより、素性と水を味わいに行ってみては。
箱根の食のなかでも飛び切りの一杯は、駅ではなく歴史が置き場所を決めています。箱根湯本と芦ノ湖を結ぶ旧東海道沿いに建つ甘酒茶屋は、山本家が13代・300年以上にわたって守る茅葺きの茶屋。温かく甘い、ノンアルコールの発酵米飲料である甘酒と、力餅を出します。この一杯は、杉並木の残る旧東海道をすこし歩いてたどり着いて、はじめて意味を持つ。そこがまさに肝で、ロープウェイと遊覧船のベルトコンベアから一歩降りた人へのご褒美なんです。ハブの行列に並んで手に入るものではありません。歩いた分だけ、甘さが深く沁みますよ。
この「置き換え」は、名所のまわりでも効きます。1969年開館、日本初の野外美術館である箱根 彫刻の森美術館(7万平方メートルの敷地にピカソ館を擁します)には、ゆっくりの昼食を合わせてみる。あるいは箱根登山鉄道のあじさいの時期を狙う。6月中旬から7月初旬、日本最古の山岳鉄道の沿線を約10,000株のあじさいが埋めます。757年創建の箱根神社、その朱塗りの鳥居の前を芦ノ湖クルーズで通り過ぎてから、食べる。前に慌ててスナックを詰め込むのではなく。接続の合間につかむものでなくなった瞬間、食はぐっと美味しくなるはずです。
ここからはまだ仮説ですが、逆張りの読みをひとつ。箱根の食を「物足りない」と感じさせるもの、つまり立ったまま齧るゴムみたいな卵や、バス停の脇でかき込む記憶に残らない一杯は、料理の問題ではなく、動き方の問題だと思うんです。来訪者の5分の4が、最終便とにらめっこしながら決まったループをたどる日帰り客。すると人だかりは、いちばん料理をしていない乗り換えポイントにばかり溜まります。そして湯本や旧東海道沿いの本当に良い厨房は、接続を1本落とすのが惜しくて、そのまま素通りされてしまう。
これもまだ仮説ですが、筋はきれいに通ります。これほど交通に縛られた場所なら、時刻表をメニュー代わりに読むことで美味しく食べられる。早めのロマンスカーに乗って、朝を残したまま箱根湯本に降り立つ。ループの時計が支配を始める前に、自然薯そばや湯葉丼という「本当の一食」に錨を下ろしてしまう。黒たまごは、本来のスナックの位置にそっと戻す。現金も忘れずに——小さな山のお店は、カードが使えないこともありますから。そうすれば箱根は、あの1,500万の日帰り客の多くが味わう「接続の合間」版より、ずっと美味しく届くはずです。
正直な名物はそば。とくに、水の代わりにすりおろした自然薯と卵で練る自然薯そばが箱根の顔です。ほかにも、柔らかな地下水で作る湯葉と豆腐、大涌谷の黒たまご(くろたまご)という名物スナック、旧東海道沿いの伝統的な甘酒、泊まるなら旅館の懐石が続きます。
体験としては、はい。食べ物としては、期待値をすこし調整してみてください。くろたまごは、ほんのり硫黄が香るだけの普通のゆで卵で、大涌谷の火山性の温泉水で黒く染められ、くろたまご館で4個ほど約500円のパックで売られています。ランチとしてではなく、ロープウェイでどうせ立ち寄る噴煙地で、その場で頬張るのが正解。地元では、ひとつで寿命が7年延びると言い伝えられています。
接続を失わずにループから降りられる、箱根湯本の周辺です。自然薯そばのはつ花そば本店、地下水の湯葉丼 直吉、そばを目的地にするならミシュランの手打ちそば 竹やぶ箱根。旧東海道の甘酒茶屋も、甘酒と力餅のために少し歩く値打ちがありますよ。
湯本周辺のそばや湯葉丼のランチで、おおよそ1,000〜2,000円。黒たまごをつかむだけなら、もっと安く済みます。新宿からの2日間有効の箱根フリーパスが約7,100円、ロマンスカーの座席指定は片道あたり約1,150〜1,200円ほど。現金も少し持っておくと安心です。小さな山のお店は、カードが使えないこともありますから。