
海のものをいちばんおいしい瞬間に食べたい、そんな気分で向かう休日にこそ、江の島は応えてくれます。新宿から片道約65分、しらす丼はおおよそ¥1,000〜1,800。ところが、この島でほんとうに味を分けるのはメニューではなくカレンダーなんです。名物の生しらすが揚がるのはおおよそ3月11日から12月31日まで、1月1日から3月10日は禁漁で、シーズン中でも海が時化(しけ)れば昼前に品書きから静かに消えてしまいます。
江の島は相模湾の入口に立ち、看板の一皿は湾からまっすぐやってきます。湘南の海岸線で網にかかる、半透明のしらす。これがメニューを席巻しているのは宣伝上手だからではなく、もっと切実な理由 ― 生しらすはとにかく足が早いからです。だから一杯のしらす丼は「ついさっき船が戻った」という鮮度の証明書のようなもの。ところが、その脆さこそが「いつでも出せるわけではない」理由でもあるんです。おおよそ3月から12月の漁期を外れれば生はそもそも存在せず、シーズン中でも海が荒れた日には昼前に品書きから消えてしまいます。生が無理な日は、代わりに釜揚げ。これはこれで滋味深いけれど、きらめきはひと呼吸ぶん静かになります。
この漁期は、ちょっとした代償も連れてきます。冬の深い時期にイルミネーション目当てで訪れると、ガイドがすすめてくるその料理が「年内終了」になっている ― そんなすれ違いが起きるんです。だから丼を漁に合わせて計画するのが正解で、その逆ではありません。予算はおおよそ¥1,000〜1,800をみておけば安心ですよ。
まずは、海からの距離がいちばん近い一軒から。弁財天仲見世通り(参道)の「とびっちょ」は、しらすの卸が営む島で最も知られた専門店で、生と釜揚げ、どちらの丼も出してくれます。そして、これから話す「需要の問題」をいちばん分かりやすく見せてくれる店でもあるんです。混む日には、店先の行列が約2時間に及ぶこともあるほど。同じ参道を少し進めば「あさひ本店」が、タコを丸ごと一匹プレスして「たこせんべい」に焼き上げています。香ばしい湯気を立てるこの巨大な焼き煎餅も、やっぱり行列をつくる名物ですよ。
眺めと一緒に味わいたい日は、島の反対側へ渡りましょう。「魚見亭(うおみてい)」は相模湾を見下ろす崖の上の老舗で、屋外テラスに座れば、しらすや海鮮焼きの湯気の向こうに海が広がります。料理と絶景が同じ卓にやってくる、そんな一軒。橋に近い側では、三代続く「江之島はるみ」が、地元のしらすとサザエ(つぼ貝)を卵でとじてご飯にのせた「江の島丼」を看板にしています。どの店にも、ひとつ共通する法則があります。厨房が船に近いほど、魚を飾り立てる必要がない、というものです。
あの2時間待ちは、たまたま一軒の名店が当たった、という話ではありません。狭い参道の一本に、島じゅうの人が昼どきどっと集まる。その数の重みが、ひとつのカウンターに乗っているんです。江の島を擁する藤沢市を訪れた観光客は、2019年に過去最高の約1,929万人。うち外国人だけでも80万人を超えたと推計されています。コロナ禍の落ち込みはあったものの、底はそれでも高く、2022年度でも年間およそ1,700万人が数えられました。この一部が昼の参道へ流れ込むだけで、2時間待ちはもう驚く数字ではなくなります。
歩いてみて気づくのは、この混雑が「ずっと」ではなく「一気に」だということです。仲見世の参道と、その真ん中の有名店のカウンターに、昼の時間帯だけ人が溜まる。だから、早めに一杯すませてしまうか、最初の行列に飲まれた店を素通りして反対側の魚見亭のようなテラス席へ足を向ければいい。同じ島が、ほんの数分の一の時間でおなかを満たしてくれますよ。
江の島グルメは、冷えながら列に並ぶものではなく、登りきった先のごほうびにするといちばん甘い。この島はそもそも、海と財宝と芸能の女神・弁財天をまつる三社めぐりの参道でもあります。階段を省きたい脚には、有料の屋外エスカレーター「江の島エスカー」が約4分で頂上付近まで運んでくれますよ。その上にそびえるのが、高さ59.8メートルの「シーキャンドル」。日本最大の民間所有の灯台です。足もとのサミュエル・コッキング苑は、英国商人が1882年に開いた植物園で、晴れた日には展望台から富士山や三浦半島までくっきり見渡せます。
店の前を通り過ぎて南の磯へ進むと、崖下の海食洞「岩屋洞窟(いわや)」が待っています。第一岩屋には仏像と祠、第二岩屋には伝説の龍がまつられ、岩場の稚児ヶ淵(ちごがふち)を抜ける海沿いの道でたどり着けます。下りを夕方遅めに合わせれば、焼き台から立ちのぼる塩と炭の匂いが、どんな看板よりも上等な前菜になってくれるはず。冬になると、話は逆さまになります。生しらすは禁漁でも、「湘南の宝石」のイルミネーションがおおよそ11月下旬から2月にかけてシーキャンドル周辺を照らします。丼を光と引き換えにして、釜揚げを心おきなく味わう。そんな冬の楽しみ方もありますよ。
ここで、少し天邪鬼(あまのじゃく)な読み方をしてみましょう。江の島グルメを「期待外れ」に感じさせるもの。生しらすの売り切れ、2時間の行列、来た週にはそもそも出されなかった丼。そのほとんどが、味ではなくタイミングの問題なんです。需要は巨大で、しかもちゃんと読めます。年間およそ1,700万〜1,900万人が、ひとつの小さな島と一本の参道に流れ込み、みんなが同じ昼どきに溜まる。その上に、季節と時化がいつでも止められる漁が乗っているわけです。
まだ仮説の域を出ませんが、筋はきれいに通っています。供給と需要がこれだけ大きく振れるなら、抜け目のない食べ手は、カレンダーと時計こそをメニューとして開くはずです。生しらすの漁期に、海の穏やかな日を選んで訪れてみる。昼の混雑が押し寄せる前、生がまだ品書きにあるうちにしらす丼をかき込みましょう。そして釜揚げは、冬の正直な代役として味わう。それができたなら、江の島は本当によく食べさせてくれますよ。リストではなくカレンダーで注文した人だけがたどり着く、あの一杯を。
主役はしらす。相模湾でとれる小さな白魚で、たいていはしらす丼で出てきます。季節と漁が許せば生(なま)、そうでなければ釜揚げになります。ほかにも、タコを丸ごと一匹プレスした巨大な焼き煎餅「たこせんべい」や、参道の店先で焼き上げるサザエ(つぼ焼き)も名物ですよ。
いいえ、一年中とはいきません。生しらすの漁期はおおよそ3月11日から12月31日まで。1月1日から3月10日は禁漁で、シーズン中でも海が荒れれば漁は取りやめになります。冬の深い時期に訪ねるなら、生ではなく釜揚げになると思っておきましょう。
弁財天仲見世の参道にある「とびっちょ」は、卸が営む誰もが知る名店です。その分だけ行列も最長で、混む日には約2時間に及ぶこともあります。眺めと一緒にゆっくり味わうなら、反対側の崖上「魚見亭」が相模湾を望みながらしらすを出してくれますよ。橋に近い「江之島はるみ」では、しらすとサザエを卵でとじた「江の島丼」も味わえます。
新宿からは小田急ロマンスカーが片道約¥1,400・約65分で片瀬江ノ島までひとっ飛び。普通の小田急線なら藤沢で乗り換えて¥650と、ぐっと割安になります。しらす丼の予算はおおよそ¥1,000〜1,800をみておき、小さな店のために現金を少し忍ばせておくと安心ですよ。そして、生しらすはその日に必ずあるとは当てにしないこと。それが江の島グルメのいちばんのコツです。