
山でちゃんとおいしいものを食べたい、でも遠出はしたくない、そんな日にこそ高尾山です。新宿から京王線でおよそ50分、片道¥430、乗り換えなしでふもとに着きます。参道に一歩入れば、すりおろした山芋の白い湯気とだしの香りにふわりと包まれる。この一皿こそ、三百年の参詣がつくった経済がまるごと生き残った痕跡なんです。
高尾山を訪れる人は、年間およそ300万人。多くの資料がそう伝え、朝日新聞は400万人とまで報じました。標高599メートルの小さな山だと知ったあとでは、その数字がにわかに信じがたく響きます。世界でいちばん登られている山と言われても、思わずうなずいてしまうほど。この賑わいじたい、そう古い話でもありません。ミシュラン・グリーンガイドが2007年に三つ星をつけて以来、参道で働く人の多くが『あそこから流れが変わった』と振り返ります。
この300万の足が、ほぼ京王線一本で運ばれてきます。しかも大半は日帰り客。だから需要は、時間と場所に容赦なく集中します。週末の昼どき、駅とケーブルカーをつなぐ参道、そして紅葉が燃える11月後半。高尾山のそば屋が競うのは、目新しさではなく回転の速さなんです。メニューがそれを物語ります。品数は短く、山芋を主役に、さっと出す。温かい一杯をすすったら電車で帰る、そんな登山客に合わせた値付けです。名物が名物でいられるのは、手早くさばける一皿だからでもあるんですよ。
こうして数字を並べてみると、あの一皿の輪郭が少し違って見えてきます。
物語のはじまりは、744年開創と伝わる真言密教の古刹、高尾山薬王院。今も山の精神的な中心にあり、本堂では毎日の護摩祈祷(およそ30分、受付は午前8時30分から午後4時まで)が営まれています。この寺を目指す参詣者に必要だったのは、安くて、体にやさしく、肉を使わない食事でした。すりおろした山芋は、粘りがあって、火照った体を静かに冷まし、ほのかに甘い。寺町の求めにこれ以上ないほど応える一品だったんです。参道の茶屋がそれをそばに絡め、三百年後、この一皿は自らを生んだ参詣そのものを生き延びました。
とろろにも種類があって、頼む前に知っておくと得をします。ふだんの一杯は、長芋と大和芋を合わせた、ゆるくおだやかなすりおろし。ちょっと贅沢な一杯は自然薯、つまり本物の野生の山芋で、粘りも香りも濃さも段違い、値が張るのにはちゃんと理由があります。この違いこそが、忘れてしまう一杯と、わざわざ食べに戻りたくなる一杯とを分けるんですよ。
軸になるのは高橋家。高尾山口駅とケーブルカーの清滝駅をつなぐ参道に立ち、1836年からとろろそばを出し続けてきました。山芋は長芋と大和芋の合わせ。うずらの卵ととんぶりをのせて仕上げます。名物は、樹齢およそ150年の柿の木が悠然と天井を突き抜けて生えていること。どんな宣伝担当でも思いつかない一景です。もちろん、どのガイドブックも真っ先に案内する店で、ピーク時にはその行列そのものが体験になります。
もっと力強い一杯が恋しくなったら、栄茶屋へ。薬王院へ向かう道沿いで、1930年代初頭から続く茶屋が、看板の一杯を自然薯で仕立てます。標準の合わせより香り高く、粘りがあり、余韻もふくよか。もう少し今の感覚で味わうなら、高尾山スミカのそばカウンター。国産そば粉100%を使い、山では数少ない本格的なヴィーガン対応の一軒です。いまの京王線で誰が高尾山にやって来るかを思えば、この選択肢は以前よりずっと意味を持ちます。実際に歩いてみると、法則はいたって単純。寺に近づくほど店は古くなり、山芋はいよいよ本気になっていきます。
高尾山の食は、そばだけでは終わりません。参道には『歩き食べの経済』が広がっています。山のシンボルである鼻高の天狗をかたどった、黒豆入りの天狗焼き。もちもち食感のだんごが続き、炭火でこんがり焼いた串団子も香ばしい。どれも現金払い、どれも手早く、どれも『片手が空いていて、この先にまだ登りが残っている人』のために設計されています。夏にはケーブルカー山上駅のそばにビアマウントのテラスが開き、飲み放題と関東平野の眺めを一度に楽しめます。にぎやかで、ちょっとした社交の場で、食が主役でない唯一の場所でもあるんです。
そして食は、山頂で慌てて流し込むより、山そのものを味わう流れのなかでこそ生きてきます。高尾登山電鉄のケーブルカーは、最大勾配31.18度という日本一の急坂で知られる乗り物。その斜面を、およそ6分でぐいぐい270メートル登っていきます。これがいちばん楽なのぼり方。もうひとつ、清滝駅の左手から沢沿いに延びる、未舗装の6号路(琵琶滝コース)もいい道です。静かで、途中に店もなく、山頂のそば屋に本当に腹をすかせて着けます。どれも食そのものではないけれど、そのすべてが、あの一杯を値打ちに変えてくれるんですよ。
最後に、ちょっと天邪鬼な楽しみ方を。高尾山でそばを味わう最高の時間帯は、たぶん誰も予定に入れない時間です。紅葉シーズンを外した、平日の朝。11月後半は一年でいちばん混み合い、300万人規模の人出が、一本の参道と数軒のそば屋にどっと流れ込みます。その負荷のなかで食が良くなることはなく、ただ行列が伸び、貴重な自然薯が静かに売り切れていくだけ。だから編集部としては、こう提案したいんです。早朝の6号路を静かに登りきったご褒美にそばを置き、山頂の店が暖簾を上げた瞬間にすする。昼の人波をケーブルカーが吐き出すころには、もう下山の途につく。同じ¥430の電車、同じ三百年の一杯。それを、静けさの時間にいただく。それこそ、300万人には決して買えない、たったひとつの贅沢なんですよ。
名物はとろろそば。すりおろした山芋をのせた一杯で、高尾山薬王院への参詣の商いにまでさかのぼります。ふだんの一杯は長芋と大和芋の合わせ、贅沢な一杯は野生の自然薯で、こちらは粘りも香りもぐっと豊か。そばのほかにも、歩き食べの天狗焼きやだんご、夏のビアテラスが待っていますよ。
よく知られているのは高橋家。1836年からの老舗で、屋根を突き抜ける樹齢150年の柿の木が名物です。ただし行列は覚悟のうえで。より力強い自然薯の一杯なら、薬王院近くの栄茶屋が1930年代初頭から自然薯そばを出しています。国産そば粉100%の高尾山スミカには、ヴィーガン対応の一杯もありますよ。
ねらい目を外したいなら11月後半です。紅葉のピークで、一年でいちばん混み合う時期。約300万人が訪れる山では、この時期の負荷が長い行列と、良質な自然薯の売り切れに直結します。狙うなら、紅葉シーズンを外した平日の朝が穏やかでおすすめですよ。
新宿から京王線の特急が高尾山口駅まで直通で、所要はおよそ50分、片道¥430、乗り換えもありません。京王の『高尾山きっぷ』なら、電車が乗り放題になるうえケーブルカーかリフトの片道乗車も付いて、別々に買うより約20%お得になります。